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ゲームとリアルと「不自由さ」 [ドラゴンクエスト]

『ドラクエ9』は宝の地図とかクエストとかクリア後のお楽しみがいっぱい! みたいな話をよく聞くけど、エンディングを見たあとはぜんぜん触ってない(笑)。たぶんこれって年齢的なものが大きくて、僕が15歳なら間違いなくまだやり込んでるんだろう(少なくとも当時の僕にこれを与えていたら絶対にそうなる)けど、もし15歳でも今と同じようにクリアしたあとは放り出しているとしたら、それはたぶん、当時の15歳と今の15歳との違い、世代の違いなんだろうと思う。どっちが幸せなのか、みたいな考え方はあえてしないけれど。

軽~く書くつもりが思いのほか重たいものになって、当然ながら書くのにも時間がかかってしまい、なかなかこのシリーズが終わらない。書くのは楽しいけど、早く終わらせたい。なんだか『9』をプレイしているときと同じような感覚だけど。

おまけに今回の記事、テキストエディタを使ってちょうど半分書いたところで数日、止まっていて、久しぶりに続きを書こうとして何を思ったかそこまで書いたぶんをデリートしてファイルを上書きしてしまったのだ。あれだね、間違ってゴミ箱から削除したファイルを復元する手立てはいろいろあるけど、上書きしたファイルの、その上書き前の内容を復元することって、ほとんど不可能に近いんだね。パソコンに関するたいていのトラブルはがんばればなんとかなると思っていたけど、これはかなり盲点だった。もちろん、これを機にすぐにエディタの設定を、バックアップファイルを作成するように変えました。泥縄とはまさにこのこと。

では続きを。

5 『ドラゴンクエストV 天空の花嫁』


ここからはスーパーファミコンでのリリース。ようやくギリギリでファミコンに間に合った世代の僕にとって、このへんからはゲームそのものにリアルタイムでついていくほどの優先順位を与えなくなっていくころだ。ゲーム業界は猥雑な賑やさと巨大産業的な洗練を急速に獲得し、当初の暗闇で手探りで明かりのスイッチを探すような緊張感を失って、先人たちの組み上げたフォーマットに則った製品作りが幅をきかせていく。既視感だらけのベースに、グラフィックやサウンドなどの「進化」要素が乗っかっていく。でも、それはゲームに限らずどんなジャンルにも起こることで、その厳しい安直化と洗練化のヤスリがけに耐えられたものだけが、ジャンルとして生きながらえるのだ。そして当時の僕(20代前半)は、まさに勃興したばかりのゲームではなく、ロック・ミュージックや当時はポスト・モダン花盛りの文学や思想など、そうした時の風化作用を力強く潜り抜けてきたコンテンツを発見し、それに夢中になっていた。ありていに言えば、ゲームよりも楽しいことを見つけたのだ。

『5』の発売は1992年。僕はたぶん、その3年くらいあと、『6』が発売されるくらいのころに、遅まきながらプレイしていると思う。時期は定かではないが、バンド活動も煮詰まっていてバイトで生活しながらぶらぶらしているのもどうかと思うようになっていたある日、ふと『5』をプレイしていないことを思い出し、中古屋に走って買ってきた、その状況だけは妙にリアルな感じで覚えている。最高に幸せだけど、最高につらかった時期だ。でもゲームにのめりこむって、まさにそういう感覚だと思う。

『5』は、アンケートをとれば恐らく『ドラクエ』シリーズ中最も好きな作品として真っ先に名前が上がることの多い、いわゆる「名作」だ。壮大な設定の中に、父子の物語や結婚などリアルな「人生」を感じさせるストーリーがうまく組み込まれているため、「お話」感の強い作品だという断定をよく見かけるが、それはたぶん『3』で導入され、この次の『6』にも登場している職業システムがここでは採用されていなくて、ゲームシステム面が比較的スタンダードだったからということが大きいのかもしれない。ただ、その代わりにモンスターを仲間にできるようにすることで、パーティー内でのキャラクター選択の自由度は担保されている。

というようないかにもゲームのレビュー的な説明よりも、僕にはこの『5』について誰も言っていないことで、言ってみたいことがある。それは、このゲームをプレイしているときにユーザーに科せられる「不自由さ」についてだ。

誰も言わないが、僕がこの『ドラクエ5』をプレイしていちばん印象に残ったのは、いくつかの不自由さだ。主人公が石にされてゲーム内の時間で数年間、操作ができなくなるところや、奴隷になって働かされるところなどは象徴的で、みんなが印象的なシーンとして挙げる場面だが、そうしたストーリーの演出としての部分以外にも、このゲームには致命的ともいえる不自由さがたくさんある。たとえば入れ替わり、立ち替わり登場するNPC(ノンプレイヤーキャラクター)の多さがそうで、プレイしながら、はたしてこのキャラクターはイベントクリア後、将来的にパーティーに加わることになるのかどうか、確信が持てないまま行動を共にする場面がしょっちゅうあるのだ。あるいはそのあたりは『週刊ファミ通』(に僕はその後入って2年くらい働くことになるのだが)とかそういう雑誌で情報を得ていれば違うのかもしれないが、なにしろ当時の僕はしばらくゲームから離れていたこともあり、そういう「勘」みたいな部分もずいぶん鈍っていたわけで、そんな僕からしてみたら、この『5』はずいぶんとゴツゴツした手触りの、スムースさに欠けたゲームに感じられた。モンスターを仲間にできるのは確かに楽しかったけど、その中に最終的なパーティーに残すべき存在がいるのかどうか、それはプレイしながら、常に頭のどこかに残る悩みだった。その、ゲーム的なセオリーに自動的に乗って楽しめない、変に不自由な感じが、僕は『5』の最大の魅力なんだと思う。その「不自由さ」は、僕たちのリアルでの人間関係と、とてもよく似ているからだ。

『4』の記事でも、同じようなことを書いた。そんな「不自由さ」はこの時期の、ゲームがどんな状況でも表現できるようになっていく技術的な発展期の、まさに一瞬の隙間に生じたクリエイターたちの「不自由さ」に呼応したものなのかもしれない。表現したいものと実現可能なものとの齟齬が、位相は違えど、切実なものとしてプレイヤーにまで届いていたんじゃないだろうか。そんな「不自由さ」を感じることのできる『ドラクエ』は、この『5』が最後だと思う。

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ふにゃちゅう

この夏は「きこりの与作」をがむばりますっ!
by ふにゃちゅう (2009-08-06 19:00) 

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