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VOL.4 「大きいことは、たぶんいいことなのだ」 その2 [血統奇譚]

 前回、VOL.3のブレイクタイムに関する文章をちまちまと書き継ぎ、いつまでも書き終わらないまま1ヶ月以上が経った11月19日、ヒシアケボノが死亡したというニュースが飛び込んできた。1995年のスプリンターズSを制した名スプリンターで、フラワーパークエイシンワシントンあたりのライバルだったヒシアケボノは、あのナリタブライアンが出走したことで「事件」級の話題を呼んだ1996年高松宮杯(現高松宮記念)にも出走し、1番人気に推されている。結果はフラワーパークビコーペガサスの3着に終わったが、4着のナリタブライアンを抑えて「短距離のスペシャリスト」の面目を保ったことが、個人的には妙に印象に残っている。

 1997年一杯で引退した後はJBBA日本軽種馬協会所有の種牡馬となり、当初は青森県の七戸種馬場で繋養、その後は千葉県の下総種馬場に移ったが、目立った産駒は出せていなかった。2007年8月にはそこから茨城県にある東京大学農学部付属牧場に移動。1ヶ月前から病気で体調を崩し、この2日前に栃木県のJRA競走馬総合研究所へ移されたばかりだったという。16歳だった。

 ヒシアケボノは、とにかくその名の通り巨大な馬だった。その名の通り、というのはもちろん、大相撲第64代横綱・曙と同様に、という意味で、手元に当時の資料がないため断言は避けておくが、ヒシアケボノの名はここから付けられていると思われる。実際、ヒシアケボノが生まれたのは1992年、デビューが1994年で、一方、曙が横綱に昇進したのは1993年。現役時に550kg以上の馬体で出走していたヒシアケボノが幼駒の頃から常軌を逸して大きい馬だったことは想像に難くなく、当時、230kg超の巨体で「若・貴」のライバルとしてファンを沸かせ、大相撲ブームの絶頂期を支えていた曙からの連想で命名されたというのは、ごくごく自然な流れだと思われる。ちなみにヒシアケボノ以外に、1986年以降に中央競馬に出走した「アケボノ」が付く馬は2008年12月現在、19頭いるが、500kg以上で走ったことがあるのはわずか3頭しかいない。しかも、うち1頭は明らかに横綱の曙とは時代が合わない1983年生まれのキョウエイアケボノ(最大512kg)で、あとの2頭も1991年生まれのアケボノスキーが最大512kg、1996年生まれのアイノアケボノが500kgなのだから、曙の、そしてヒシアケボノの活躍があったからといって、巨体=「アケボノ」馬名のブームが起こったかというと、特にそういうことはなかったようだが、まあそれは別の話か。

 ところで、先ほど、ナリタブタイアンと走ったことが印象に残っていると書いたが、じつはもう一つ、ヒシアケボノに関していつまでも頭の隅に引っかかっていることがある。

 その巨体ゆえに仕上がりが遅く、3歳7月の初勝利までに6戦を要したヒシアケボノは、しかしそこからは破竹の勢いで勝ち上がっていき、10月にはスワンSでは重賞初制覇。続くマイルCSは3着に惜敗するものの、当時は暮れに行われていたスプリンターズSを制して、短距離王者の座に就くことになる。当然、まだ3歳ということもあり、翌年も現役を続け、4歳春はシルクロードS3着、先の高松宮杯3着、安田記念3着と、勝てないまでも路線の主役の1頭として活躍する。が、問題は一息入れた4歳秋からだった。ここからヒシアケボノは5歳暮れで引退するまでの1年以上、13戦にわたって、最高が4着、半分以上が2ケタ着順という極度の不振に見舞われるのだ。

 早熟だった、ということは大いにあるだろう。引退時期を逃したといえば、そうなのかもしれない。ともかく、ヒシアケボノは5歳の暮れまで休みらしい休みもとらずに走り続けた。サマースプリントシリーズをはじめ、短距離路線のレース体系がこんなにも充実してきたのはごく最近の話で、当時は多額の賞金を稼いだスプリンターがさらに現役を続けようとしたら、2つの道しかなかった。1つは、マイルも主戦場としていく「距離への挑戦」、そしてもう一つが、あくまでも短距離戦にこだわり、負担重量が重くなるのを承知でオープン特別も含めたレースに出走していく、「斤量への挑戦」だった。そしてヒシアケボノは、後者の道を選んだのだった。

 1997年初頭、オープン特別の洛陽Sに出走したヒシアケボノは、62kgを背負って8着に終わる。夏には福島のバーデンバーデンCに出走し、61kgで5着に敗れている。GI馬が、夏の福島のオープン特別に出走していることが、当時の僕には不可解に思えてしかたがなかった。何かが間違っている。そう思ったが、それが何なのかまではよくわからなかったし、また競馬マスコミの仕事をする前でもあり、それについて考えを深めるようなこともなかった。

 60kgを超える斤量で出走する馬(アラブ、障害を除く)は、レース体系が整備されていくにつれて減少の一途を辿っている。最近では、2006年札幌日経オープンでコスモバルクが62kgを背負って2着に入っているが、それを最後に、2007年、2008年はついに1例もない。その前も、6例を数えた1986年以降は、年に0~4例といった範囲にとどまっている。ハンデ戦でも、例えばカリブソングが1991、1992年の目黒記念で60.5kgを課せられてそれぞれ1着、3着と好走した例などはあるが、やはり大半を占めるのは賞金を多く稼いでいる馬が別定戦に出走してきたケースとなっている。「賞金を稼いでいる馬」といえばGI馬。ところが、GI馬が絡む例となると、驚くほど少ない。近年ではイングランディーレが2005年カシオペアSで62kg、12着という例があるのみで、ヒシアケボノ以前でも、イナリワンが有馬記念を勝った翌年の緒戦、1990年阪神大賞典で62kgを背負わされて5着、その前はスズカコバンが1986年にエメラルドSで62kg(3着)、朝日チャレンジCで61kg(6着)。グレード制導入以降では、それだけである。GI馬は、無理をしないのだ。

 ともかく、僕にとって現役時のヒシアケボノの姿で印象に残っているのは、スプリンターズSを勝った姿ではなく、バーデンバーデンCを走っている姿だった。うまく説明できないのだが、抜きん出て「重い」馬が、理不尽なほどの「重い」斤量を背負っていることに、奇妙な哀しさのようなものを感じたのだと思う。一般に、馬格のある馬ほど斤量増には強い、というが、その統計的な真偽は別として、ヒシアケボノの場合、それは決して楽な重量ではなかったはずだ。なぜならば、彼が背負った重荷には、確実に自身の「重さ」も含まれていたはずだと思うからだ。

 ヒシアケボノが死亡するわずか3日前、福島の500万下、相馬特別で産駒のオオヒメが勝っている。オオヒメ自身は約1年ぶり、3つめの勝利だが、2005年にウメノレイメイが未勝利戦で勝って以降、ヒシアケボノ産駒で勝利を挙げているのはこのオオヒメしかいない。オオヒメの馬体重は、前走からマイナス16kg。520kgだった。
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VOL.3 「大きいことは、たぶんいいことなのだ」 その1 [血統奇譚]

 9月27日、阪神の新馬戦に出ていたエンドオールの父名を見て、オヤッと思った。あるいはもっと前に、POGなどのための情報を集めたりしていて、すでにその名前を目にしていた人もいるのだろうが、いずれにしても、ブレイクタイムの名前がキングカメハメハクロフネなどと並んでいるのは、それだけでちょっとした違和感のある光景だった。種牡馬になっていたことを知らなかったわけではない。でもそれは、たとえば4年前の今日、夕食に食べたもののことを思い出す機会がこれまでに一度もなかったのと同じで、完全に頭の中の隅の方に押し込まれ、ほこりをかぶっている情報だった。エンドオールの馬主は、ブレイクタイムの馬主であるノースヒルズマネジメントの代表者一族が使用している個人名義の一つ、前田晋二氏の名義になっていた。生産は浦河の谷口牧場。やはり、ブレイクタイムが生まれたのと同じ牧場だった。

 ブレイクタイムエイシンプレストンエアシャカールアグネスフライトなどと同世代だが、クラシック戦線には見向きもせず、葵S、菩提樹Sを勝つなど、早いうちから短距離路線に的を絞って活躍してきた。4歳時の2001年には15番人気ながら安田記念でブラックホークの2着に入り、馬連12万馬券の片棒をかつぐなど、その成績以上に記憶に残る走りを見せてきた同馬に関して思い出されるのは、やはりなんといっても550kg前後にも達したその雄大な馬体である。2002年のアイビスサマーダッシュではなんと570kgで出走し、カルストンライトオの2着に頑張っている。

 だが、その大きな身体が災いし、ブレイクタイムは脚元の不安でしばしば長い休養を余儀なくされた。初重賞制覇は5歳の秋、2001年の京成杯AH(現在は京王杯AH)。8ヶ月の休養を挟んで2戦目の同じレースで連覇を達成、その後さらに約1年間の休養に入り、2004年の関屋記念で復帰、ブルーイレヴンの5着としたところでついに引退となった。

 引退後は浦河のイーストスタッドで種牡馬入りしたが、2003年年5月に急死した世界的名種牡馬デインヒルの貴重な後継というヴァリューにもかかわらず、GIを勝てなかったこともあり、種付け料は20万円という格安条件での供用となった。初年度の種付け数はわずか5頭。そこから3頭が競走馬となり、その1頭がエンドオールというわけである。そして、先に述べた新馬戦に出てきたエンドオールの馬体重は520kgという、2歳馬としては相当な大型に入る部類の数字を示していた。このデビュー戦を2着と好走したエンドオールは、次の京都の芝1200m戦で人気に応えて勝ち上がる。馬体重は初戦から変化なしの520kg。2kg絞れた3戦目の500万下戦では、9着に大敗している。

 その後、生まれ故郷である谷口牧場(現在は浦河育成センター)に移動したブレイクタイムは、年間1頭程度の種付けを続けていたが、2008年はついにその数がゼロになったという。だが、種牡馬としての活動は続けていくらしい。2009年春、どのくらいの種付け希望が舞い込むのかは、エンドオールのこの後の活躍にかかっているといっても過言ではない。もちろん、競走馬と生まれた以上、クラシック戦線に乗ってダービーを目指すような馬に育つことにこしたことはないのだろうが、このまま父と同じ、迫力のあるスピードを持ち味とする大型馬として短距離路線で活躍してほしい、でないとつまらないなどと考えるのは、決してファンの勝手な希望にすぎないわけではないと信じたい。

 ちなみにエンドオールの脚元はとても丈夫で、現在のところそのあたりは父親には似ず、何の心配もいらない状態だという。

 そしてもちろん、それを喜ばないブレイクタイムのファンはいないはずなのだ。

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