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VOL.3 「大きいことは、たぶんいいことなのだ」 その1 [血統奇譚]

 9月27日、阪神の新馬戦に出ていたエンドオールの父名を見て、オヤッと思った。あるいはもっと前に、POGなどのための情報を集めたりしていて、すでにその名前を目にしていた人もいるのだろうが、いずれにしても、ブレイクタイムの名前がキングカメハメハクロフネなどと並んでいるのは、それだけでちょっとした違和感のある光景だった。種牡馬になっていたことを知らなかったわけではない。でもそれは、たとえば4年前の今日、夕食に食べたもののことを思い出す機会がこれまでに一度もなかったのと同じで、完全に頭の中の隅の方に押し込まれ、ほこりをかぶっている情報だった。エンドオールの馬主は、ブレイクタイムの馬主であるノースヒルズマネジメントの代表者一族が使用している個人名義の一つ、前田晋二氏の名義になっていた。生産は浦河の谷口牧場。やはり、ブレイクタイムが生まれたのと同じ牧場だった。

 ブレイクタイムエイシンプレストンエアシャカールアグネスフライトなどと同世代だが、クラシック戦線には見向きもせず、葵S、菩提樹Sを勝つなど、早いうちから短距離路線に的を絞って活躍してきた。4歳時の2001年には15番人気ながら安田記念でブラックホークの2着に入り、馬連12万馬券の片棒をかつぐなど、その成績以上に記憶に残る走りを見せてきた同馬に関して思い出されるのは、やはりなんといっても550kg前後にも達したその雄大な馬体である。2002年のアイビスサマーダッシュではなんと570kgで出走し、カルストンライトオの2着に頑張っている。

 だが、その大きな身体が災いし、ブレイクタイムは脚元の不安でしばしば長い休養を余儀なくされた。初重賞制覇は5歳の秋、2001年の京成杯AH(現在は京王杯AH)。8ヶ月の休養を挟んで2戦目の同じレースで連覇を達成、その後さらに約1年間の休養に入り、2004年の関屋記念で復帰、ブルーイレヴンの5着としたところでついに引退となった。

 引退後は浦河のイーストスタッドで種牡馬入りしたが、2003年年5月に急死した世界的名種牡馬デインヒルの貴重な後継というヴァリューにもかかわらず、GIを勝てなかったこともあり、種付け料は20万円という格安条件での供用となった。初年度の種付け数はわずか5頭。そこから3頭が競走馬となり、その1頭がエンドオールというわけである。そして、先に述べた新馬戦に出てきたエンドオールの馬体重は520kgという、2歳馬としては相当な大型に入る部類の数字を示していた。このデビュー戦を2着と好走したエンドオールは、次の京都の芝1200m戦で人気に応えて勝ち上がる。馬体重は初戦から変化なしの520kg。2kg絞れた3戦目の500万下戦では、9着に大敗している。

 その後、生まれ故郷である谷口牧場(現在は浦河育成センター)に移動したブレイクタイムは、年間1頭程度の種付けを続けていたが、2008年はついにその数がゼロになったという。だが、種牡馬としての活動は続けていくらしい。2009年春、どのくらいの種付け希望が舞い込むのかは、エンドオールのこの後の活躍にかかっているといっても過言ではない。もちろん、競走馬と生まれた以上、クラシック戦線に乗ってダービーを目指すような馬に育つことにこしたことはないのだろうが、このまま父と同じ、迫力のあるスピードを持ち味とする大型馬として短距離路線で活躍してほしい、でないとつまらないなどと考えるのは、決してファンの勝手な希望にすぎないわけではないと信じたい。

 ちなみにエンドオールの脚元はとても丈夫で、現在のところそのあたりは父親には似ず、何の心配もいらない状態だという。

 そしてもちろん、それを喜ばないブレイクタイムのファンはいないはずなのだ。

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