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ヒッピーに捧ぐ [忌野清志郎死去に思う]

(9月20日の記事の続き)

出会ったその日に初めて行ったウチヤマの部屋で、初めて聴くRCサクセションのレコードやらテープやらを聴かせてもらっているうちに、急速に日は暮れていき、部屋の中もどんどん暗くなっていった。いや、本当のところをいうと、明かりが付いていたのをわざわざウチヤマが消したんだとは思うんだけど、正確なところは自信がないのだ。小さな断言を積み重ねなければなかなか前に進んでいかない「言葉」ってやつと、放っておけばいつまでも同じ場所にとどまっている「記憶」といううやつの相性は、本質的に最悪で、たぶんだからこそ、僕たちはこうやって「記憶」を「言葉」に直そうとしたがるんだろうとは思う。ともかく、何枚目だったか、たぶん(もちろん断言なんてまったくできないどころか、間違っている可能性も大いにあるが)『シングル・マン』がかけられたとき、ウチヤマの部屋は真っ暗だった。

わざわざ明かりを消したという僕の記憶が本当なら、それはまさにこれからウチヤマがいちばん好きだという曲がかかるからだった。かかったのは「ヒッピーに捧ぐ」だった。切ない、糸を引くような声で清志郎が「♪お別れは……」と歌い始めると、ウチヤマは目をつぶった。ヨシハマがそれを見て、またやってるよ、といった調子で軽く笑っている。いったいどっちにあわせたものかわからなくて、戸惑いながらそのまま聴いていると、ふいに「ああ、ダメだ……!」とウチヤマが情けない声を出した。ウチヤマは、泣いていたのだった。

ウチヤマは、当時付き合っていた女の子と別れたばかりで、この曲を聴くとそのことを思い出してしまってしょうがないのだと、鼻声で説明してくれた。たしか曲の内容と、その彼女がこの曲を好きだったから、という理由が重なって、もうダメなのよ、というような説明だったと思うが、でもそのへんはあやふやだ。でもたしかに、ウチヤマは泣いていた。そして僕は、それをうまく説明のつかない、驚きと感謝が入り混じったような、いまでもよくわからない感情とともに眺めていたのだった。

だからなんだというわけではない。これ以上、特に教訓めいた結論があるわけでもない。この話はこれで終わりだ。そしてとにもかくにも、それが僕と忌野清志郎の音楽との出会いだったのだ。




じつは、前回の記事をアップしたあと、ウチヤマとヨシハマ、その本人たちから、書かれた内容の細かいところについていろいろとツッコミが入った。細かいところだけじゃなく、僕がそのとき彼らに対して抱いたイメージのうち、当人たちからするとそんなに重要じゃなかったり、ほとんどボール球に近い変化球のように感じたりするような部分についても、遠慮のない意見が述べられた。もちろん、それは無条件で歓迎すべき反応だった。だって、何よりもツラいのは、読んだ――物理的に、医学的に「届いた」――のにもかかわらず、遠慮して、放っておかれることだと思うからだ。

もちろん、どうやら僕の記憶はいろんなところで間違っているようだった。でも不思議なことに、僕はそれを――自分の記憶に間違いや思い込みによる脚色がたくさんあることを知って、なんだか嬉しくなってしまったのだ。うまくいえないが、面白いものを教えてくれてありがとう、というような気持ちとでもいうか。だから、今回の記事には、間違いがあるかもしれないという可能性の示唆は余分にしたが、でもあまり深い反省の痕は残っていない。本当のことは、僕か、ウチヤマか、ヨシハマの誰か一人がうっすら覚えていればいいし、なんならみんながあやふやでもぜんぜんかまわない。どのみち、これを読んでいる人にとっては、ここに書かれたことが「本当のこと」になるんだし。

YouTubeでオリジナルやライブなどいくつかのバージョンを聴くことができる「ヒッピーに捧ぐ」だが、基本的にはどれもほとんど同じで、そこには次のような歌詞が出てくる。

 僕らは歌い出した
 君に聞こえるように
 声を張り上げて

僕はもう、長らくバンドはやっていないし、歌うこともしていない(カラオケとかまったく行かないので、本当にしていない)。「君」が誰なのかも、だんだんとあいまいになっている。その対象は、人生を生きていくにつれ、いやおうなしに増えていくし、誰か一人(野暮な断りを入れると、これはべつに女の子がどうこうということじゃなく、もっと広い意味での話だ)に対してシンプルなメッセージを届けたいという強烈な欲求を抱くには、オトナになりすぎてしまった。さまざまな手段や選択肢と、そしてなにより分別を手に入れてしまった。

でも、「僕ら」という一人称でこの歌詞をつぶやいてみると、なんだかそうやって諦めるのは早すぎるような気がしてくる。「歌い出す」ことができるんじゃないかという、捻りのない言葉でいえば勇気のようなものがわいてくるのだ。

「僕ら」が歌う、そのやり方は、昔とはずいぶん違ってしまったかもしれない。たとえばこんなブログもそうかもしれないし、あるいはそれぞれの日々の糧を得るための仕事や、高校1年生の頃には想像もつかなかったような、さまざまな社会のしがらみの中での行動の、一つ一つがそうなのかもしれない。

でもともかく、「僕ら」はまだ声を張り上げて歌うことができるのだ。いまでも。

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バンドマン、歌ってよ [忌野清志郎死去に思う]

(7月4日の記事の続き)

ウチヤマとヨシハマは、通っていた公立中学校の同級生たちとRCサクセションのコピーバンドをやっていた。

僕たちの世代のごく平均的な音楽体験(それはまるで義務教育のように、ほぼ全員の精神の基底部分に多かれ少なかれ刷り込まれている。後に各自がどんな方向へ行こうとも、その痕跡を消すことは難しい)は、基本的に大量消費社会の産み出したものに依存していた。60年代音楽の直線的なメッセージ性、そのカウンターとして高度にハイブリッド化し、イージー・リスニング方向へ進んだ70年代前半のロック、そして、それらをすべてぶち壊してひっくり返す70年代後半のパンク・ムーヴメント。そんな、なんだかんだが過ぎ去って、音楽は本格的に大量消費の対象に入っていた。そこではどんなすぐれた音楽的活動も、すべてコピー・ライターの手を通してしか世に出されなかった。マーケティングがアーティストを作り上げていた。

「商品」たちの流通力はハンパじゃなく強力で、まずそれをシャットアウトすることなんて無理な相談だった。僕たちは、そんな中から必死になって「本物」のニオイを嗅ぎ分けなければならなかったのだ。それは、なかなかにスリリングなカルチャー体験だったと、今でも思う。いまの子供たちのほうが、よっぽど「本物」を知るガイドに恵まれているんじゃないだろうか。そのガイドのキチガイじみた情報量に耐えられるかどうかは、また別の問題なのだが。それに、最近の子供たちは、「まがい物」をつかまされることへの覚悟や諦めを、あらかじめ持つことができているように感じる。それがいいとか悪いとかではない。僕たちとは、違うということだ。僕たちは、もう少し無垢だった。

もっとも身近な日本の音楽業界を注視してみると、1980年前後、僕たちが小学校高学年から中学にかけて、ニューミュージック・ブームと呼ばれるものが末期状態に達していた。いわゆるそれ以前の「フォーク」がどんどん(ほんの数年間であっという間に)ソフィストケイトされ、ロック的な文法といっしょになって「ポップ」へと昇華していく、その最終段階ということだ。サザンオールスターズとか松山千春とかユーミンとか、そういうあたりの話だ。中島みゆきとか大瀧詠一とか佐野元春とか、そういったアーティストが出てきたあたり。RCサクセションは、そんなムーヴメントの、比較的はじっこの方にいた。かなり強度の、それもルーツに根ざしたR&B色と、「オシャレ」という言葉に積極的に反発しているようなイメージ作りがそうさせていたのだが、それは、好き嫌いを超えて、当時のシーンの中では「本物」の香りをぷんぷんさせる結果となっていた。それも、圧倒的に。

じつをいうと、そのとき僕が知っていたのは「雨上がりの夜空に」とか「トランジスタ・ラジオ」とか、あと「サマー・ツアー」とか、そんな有名曲だけだった。「雨上がり~」あたりはギターの雑誌かなんかに載っていた譜面を参考に練習のつもりで弾くために聴いたりはしていたが、それ以上の聴き方をしてはいなかったのだ。それよりは、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンの古い曲のリフを練習したり、新しく出たデフ・レパードのアルバムのギター・パートをコピーしたりするのに忙しかった。RCに限らず、邦楽全般とは、中学一年生くらいのころから徐々に距離を置いていた。あんなに大好きだったオフコースも、ほとんど聴かなくなっていた。

だから、ヨシハマとウチヤマがRCサクセションが大好きだというのを聞いて、いちばん最初に思ったのが、ああ、自分とは違うルートをたどってきたやつらだ、ということだった。ただたんに、僕の狭い、狭い世界にはそのルートを歩く強力な存在がいなかっただけの話なのだが、世の中にそういう勢力が存在していることは、もちろん知っていた。このときの気分を正確に記せば、ついに正面から「それ」に出会う日がやってきたな、という感じだったと思う。

一方、彼らの側がそのときどんなふうに思ったのかは、聞いたことはない。でも、たぶんきっと同じようなことを感じていたんじゃないだろうか。お、洋楽野郎だ。それもハードロック・ギター小僧か。ウチの中学ではセンパイにいたけど、周りにはいなかったなあ、みたいな。

考えてみれば、当時はこの2ルート、大きく「邦楽」と「洋楽」というくらいしか、分かれ道はなかった。逆にいえば、大量消費社会の神々も、同じユーザーにその両方を貪欲に摂取させることまではできなかったとでもいうべきか。いずれにせよ、もはやいかなる「ジャンル」という言葉にも薄っぺらいイメージしか抱けない現在と比べれば、ずいぶん大らかで牧歌的な時代だったとは思う。音楽を聴くのに、少なくとも小難しいことを考える必要はなかった。良くも悪くも。消費のルートに乗ってしまえば、あとは自動的に一定の場所までは連れていってもらうことができた。

それにしても、ファースト・コンタクトで明らかに相手を違うルートの人間だと認識しておきながら、どうして僕とウチヤマ、ヨシハマが接近したのかは、今考えるとうまく説明する言葉がない。もちろん、僕の方にはちゃんとした理由があるんだけど。だって、心細かったんだ。

誰にだって、人生の分岐点というものはある。あの学校に受かっていれば、とか、あの部活にもし入らなかったら、とか。もしあの子と付き合っていなければ、とか。僕の場合は、ここが人生における最も重要な瞬間の一つだったと、あとになればなるほど思える。現在の僕を形成するいろんな種が、この瞬間に蒔かれている。僕はそれを、窓際の席に差し込む初春の光とともに今でもはっきり感じることができる。もしあれがなかったら、と考えると、本当に、比喩ではなくぞくっとして体が震える。自分の存在が霧になって消えてしまうような恐怖を感じる。

人数的に、1対2だったこともよかったのかもしれない。彼らはとりあえず学校が終ったら(まだ授業も本格的に始まる前で、早い時間帯だったと思う)僕をウチヤマの家に誘い、僕も黙ってそれについていった。彼らは、RCサクセションをあまりよく知らないという僕に、レコード(当時はまだCDはあまり普及していなかった)を聴かせたくてたまらないようだった。「雨上がりの夜空に」も「トランジスタ・ラジオ」も名曲だけど、でもそれだけでRCを判断するのはちょっとマズいぜ、あれはあれでいいけど、でも違うんだ。もっとすげえんだ、もっといい曲がいっぱいあるんだよ。そんな彼らの気持ちは、今になると本当によくわかる。

ウチヤマの部屋で、いちばん最初にかけたのは、絶対に二人はもう覚えていないだろうが、ライブ・アルバムの「ラプソディー」だった。この録音のために久保講堂で行われた一夜限りのライブの模様を収めたアルバムで、「エレクトリック化」し、RCがもっとも強力な一枚岩的なバンド感を聴かせ始めた、まさにその瞬間を体験できる記念碑的な作品だ。一曲目の『よォーこそ』を聴いて、自分のバンドのメンバーといっしょにこれをマネしたくならない中学生がいたら、ウソだと思う。それをやってきたと誇らしげにいうヨシハマとウチヤマは、とてもカッコよく見えて、こいつはすげえやつらだ、と興奮しないわけにはいかなかった。(あと一回くらいつづく)
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たぶん、窓の外かなんかをぼんやり見てたんだと思う [忌野清志郎死去に思う]

(5月14日の記事の続き)

たぶん、窓の外かなんかをぼんやり見てたんだと思う。

学区外の中学出身だったこともあって、知っている顔の一人もいない教室で、だから僕はちょっと身を固くしたまま、世の中のことになんてまるで興味のないようなふりをしながら、でも実際のところは耳をそばだてて、今日初めて会ったばかりの見知らぬ同級生たちの会話を聞いていた。楽しそうに話をしているのはどれも同じ中学出身の者どうしで固まったグループで、それぞれがなにか他のグループにだけは負けたくないとばかりにおしゃべりのテンションを下げようとしないもんだから、教室の中はじっと聞いていると頭がおかしくなりそうなでたらめな喧騒で満たされていた。天気から窓からの風景まで、ビジュアル的なものはなにひとつ思い出せないというのに、そのサウンドだけは今でも喫煙室の壁を染めるタバコの脂のように、頭の中にこびりついている。いい思い出、などと呼べるような心地よい甘美さは残念ながらない。どちらかといえば、よく見る嫌な夢に似た、思い出すたびにわけもなく不安な気持ちになるような類のものだ。でも、それは確かに今から25年前、1984年の春に起きたことなのだ。

いきなり横から、「なあ、もしかしてバンドとかやってる?」という質問が飛んできた。本当に予想外のタイミングだったのか、それとも何かしら予感めいたものがあって半ばこちらも待ち構えていたのかは、もはや覚えていない。まあどっちもありそうな話だとは思うけど、でもいずれにせよ、先に声をかけてきたのはヨシハマとウチヤマの方だった。すばやく振り向いて「うん」と返事をする。よく考えたらすごい質問のしかただし、そして答えの方はそれに輪をかけて間抜けな感じだけど、それはたぶん、お互いにどこか警戒していて、そして昂揚していたからなんだと思う。ああいう警戒と昂揚のバランスを、僕はもうずいぶん長いこと、経験していないような気がする。

僕とは違って、二人はその神奈川県の県立高校のある学区の中学出身で、簡単にいえば親友どうしだった。それが同じ高校に進学(学校は、所詮公立高校の、さらにその学区の中での話ではあるが、いちばんの進学校だった)するだけならまだしも、9クラスもある中で同じクラスに入ったわけで、じつはそれってけっこう興奮すべき確率なんじゃないかと思うのだが、そのときの僕にはそんなことはわからない。とにかく、身長が180センチくらいあり、ロン・ウッドがだいぶ髪を短くしたような(どんなだよ)ヨシハマと、天然パーマに胡散臭いメキシカンを思わせる浅黒い顔と分厚いクチビルを持ったフケ顔(ほとんど悪口だな、これじゃ)のウチヤマがそこにはいて、彼らの方が二人いるぶん余裕のようなものがあり、間違いなく僕のほうが気おされていたとは思う。そういう僕はというと、トップが短くツンツン立ってて、そのくせ後ろはちょっと長いというダメなリマール(ってわかるだろうか? カジャグーグーってバンドのボーカル)みたいな髪型で、80年代のその時期には、ちょっと色気づいた男の子のあいだでは珍しくないスタイルではあったわけだが、先に説明したようにわりと進学校の部類に入る高校の、それも新入生の中では目立っていなくもなかったようで、向こうにしてみても、なんだか普通じゃないやつがいるぞということで声をかけてきたわけだ(とあとで聞いた)。でもよく考えたら、そんな程度の根拠で「もしかしてバンドやってる?」もないもんだな、まったく。

文章というやつは、その本質として、書き手がそれほど強く思っているわけではなくても、こういった話をことさら運命的なもののように見せようとする力を生み出してしまう。たぶん、僕たちの出会いはそれほどスケールの大きな話ではないし、本人が思っているよりはずっとありがちなものなのだろう。でもくどいようだけど、これは25年前、僕の身に、つまりヨシハマやウチヤマや、間接的な影響と直接の体験を同種の重さをもって数えるならば、その後、僕たちが出会うことになるたくさんの人たちの身に、実際に起きたことなのだ。僕たちは、あの日に帰ってやりなおすことはできない。もちろん、やりなおしたくなんかこれっぽっちもないんだけどね。

ウチヤマとヨシハマは、中学の頃からいっしょにバンドをやっているのだと僕に言った。ウチヤマはキーボードで、ヨシハマはギターだった。パートを訊かれた僕は、俺もギターだと言った。もしかしたら二人は、僕がベースとかドラムだったら最高だと考えていたかもしれないが、こればっかりはしょうがない。運命の方も、さすがに無い袖は振れないということか。どんな音楽を聴くのか、という話になって、僕は自分が洋楽の、それもハード・ロックが好きだということを言った。二人はちょっと困ったような感じになって、日本のロックはまったく聴かないのか、と訊いてきた。僕は少し考えて、子供ばんどとか、と言う。ほおーっ、という反応。なんだか面接でも受けているような気分で、僕はRCサクセションの名前を出した。二人の顔が、ぱっと輝いた。 (つづく)

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世界に対する個人の感想(忌野清志郎死去の報に思う) [忌野清志郎死去に思う]

ブログに限らず、文章を書くときにいつも心がけていたいと、いってみればマイルール的に設定しているいくつかの事柄がある。僕は主に文章を書くのを生業としているわけだから、これは個人的な職業倫理のようなものだということもできるかもしれない。でもそれは、あくまでも個人的な、「書く」という行為に意識的でありたいという願いが生み出した姿勢のようなものであり、それに抵触するからこの仕事は受けないとか、やりたくないとか、そういう結論を導くつもりは毛頭ない。

とまあ、言い訳はさておき、そのマイルールがどんなものなのかというと、それは

世界に対する個人の感想は書かない

というものなのだ。「世界」とは、グローバルなものという意味ではなく、他者と共有している環境、つまり「社会」と置き換えてもいいのだが、このマイルールを自分の中で一般化しようとすると、この言葉になるだけで、具体的な局面では他にいくらでも置き換えは可能だ。

手っ取り早いところでは、スポーツ・ジャーナリズムというのは、まさにこれだったりする。「世界」が共有する事件としてのゲームとその結果があり、それに対して、個人的な肉体と思考を持つ書き手が何かを書こうとすると、それを「感想」という平易すぎるタームでひと括りにしていいのかどうかは別として、でもつまるところそういった類いのものにならざるを得ない。それは手紙でもなく、チラシの裏の買い物メモでもなく、マンション管理組合からのゴミ収集に関するお知らせでもなく、もちろん営業先へ持っていく企画書でもない。それは、基本的には世界に対する個人の感想なのだ。

ところで、ブログのような表現手段が普及し、雑誌のようなメディアが苦戦を強いられるという傾向に関しては、さまざまな側面からさまざまな人が語っている。僕の考えでは、それは世界に対する個人の感想のインフレーション、相対的な価値の低下をもたらしてしまった。世界に対する個人の感想がこれほどまであふれかえってしまったいま、雑誌でスポーツの結果に関する文章を書くという行為には、少なくとも僕にとっては相当に高いハードルが課せられているように感じられるのだ。ましてや僕は社会的に特別な意味を付与された人間(「個人」以上の何者か)ではない。そんな僕が、いまさら無邪気にたんなる世界に対する個人の感想を書くことはできない。どんなに苦しくても、そうではないことを書く、少なくとも書かなければと意識し続ける、それだけが僕にできることなのだ。

なかなか思っていることを伝えるというのは難しいね。ここまで読んで、結局何がいいたいのかわからなかったという人、ごめんなさい。なんだよおい、ちっとも具体的な話にならなくて恐ろしくつまらないな、と思った人、本当にごめんなさい。

で、さらに謝らなければいけないのだが、実はここまではただの前フリだったりするのだ! 驚いたでしょう。僕も驚いた。今回、書こうと思っていたのは、忌野清志郎に関することだったのだが、いざ書き始めてみたら、なんだかんだと前置きをしないではいられなくなってしまった。つくづく、小心者だなあと思う。ダメだねえ。

いまから数日前、忌野清志郎の死去の報に触れて、その瞬間から今もまだ、個人的にはものすごい重さを伴った感情に襲われ続けているのだが、どんなに重くとも、それはそのままの形では世界に対する個人の感想にすぎない。いろんな人が、本当に多くの人がこの大事件に対して心が動かされた記録をネット上に書きつけていて、もちろんそうしたくなる気持ちは痛いほどというか、本当に、医学的肉体的に胸が痛くなるほどよくわかるのだが、さて僕自身はどうしたいのかというと、ここのところ何日も、なかなかそういった気持ちを文章にする気が起きないというか、いったいどうすればいいのかちょっと途方にくれていたのだった。簡単にいえば、何か書きたいんだけど、何を、どこに、誰に向かって、どのくらい、いつ、どんなふうに書いたらいいのか、何ひとつわからなかったのだ。でも、いろいろ考えているうちに、ようやく一つ、とっかかりが見えたような気がするので、それを頼りに、次回は何ごとかを記してみたい。続く、ということで。

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