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バンドマン、歌ってよ [忌野清志郎死去に思う]

(7月4日の記事の続き)

ウチヤマとヨシハマは、通っていた公立中学校の同級生たちとRCサクセションのコピーバンドをやっていた。

僕たちの世代のごく平均的な音楽体験(それはまるで義務教育のように、ほぼ全員の精神の基底部分に多かれ少なかれ刷り込まれている。後に各自がどんな方向へ行こうとも、その痕跡を消すことは難しい)は、基本的に大量消費社会の産み出したものに依存していた。60年代音楽の直線的なメッセージ性、そのカウンターとして高度にハイブリッド化し、イージー・リスニング方向へ進んだ70年代前半のロック、そして、それらをすべてぶち壊してひっくり返す70年代後半のパンク・ムーヴメント。そんな、なんだかんだが過ぎ去って、音楽は本格的に大量消費の対象に入っていた。そこではどんなすぐれた音楽的活動も、すべてコピー・ライターの手を通してしか世に出されなかった。マーケティングがアーティストを作り上げていた。

「商品」たちの流通力はハンパじゃなく強力で、まずそれをシャットアウトすることなんて無理な相談だった。僕たちは、そんな中から必死になって「本物」のニオイを嗅ぎ分けなければならなかったのだ。それは、なかなかにスリリングなカルチャー体験だったと、今でも思う。いまの子供たちのほうが、よっぽど「本物」を知るガイドに恵まれているんじゃないだろうか。そのガイドのキチガイじみた情報量に耐えられるかどうかは、また別の問題なのだが。それに、最近の子供たちは、「まがい物」をつかまされることへの覚悟や諦めを、あらかじめ持つことができているように感じる。それがいいとか悪いとかではない。僕たちとは、違うということだ。僕たちは、もう少し無垢だった。

もっとも身近な日本の音楽業界を注視してみると、1980年前後、僕たちが小学校高学年から中学にかけて、ニューミュージック・ブームと呼ばれるものが末期状態に達していた。いわゆるそれ以前の「フォーク」がどんどん(ほんの数年間であっという間に)ソフィストケイトされ、ロック的な文法といっしょになって「ポップ」へと昇華していく、その最終段階ということだ。サザンオールスターズとか松山千春とかユーミンとか、そういうあたりの話だ。中島みゆきとか大瀧詠一とか佐野元春とか、そういったアーティストが出てきたあたり。RCサクセションは、そんなムーヴメントの、比較的はじっこの方にいた。かなり強度の、それもルーツに根ざしたR&B色と、「オシャレ」という言葉に積極的に反発しているようなイメージ作りがそうさせていたのだが、それは、好き嫌いを超えて、当時のシーンの中では「本物」の香りをぷんぷんさせる結果となっていた。それも、圧倒的に。

じつをいうと、そのとき僕が知っていたのは「雨上がりの夜空に」とか「トランジスタ・ラジオ」とか、あと「サマー・ツアー」とか、そんな有名曲だけだった。「雨上がり~」あたりはギターの雑誌かなんかに載っていた譜面を参考に練習のつもりで弾くために聴いたりはしていたが、それ以上の聴き方をしてはいなかったのだ。それよりは、ディープ・パープルやレッド・ツェッペリンの古い曲のリフを練習したり、新しく出たデフ・レパードのアルバムのギター・パートをコピーしたりするのに忙しかった。RCに限らず、邦楽全般とは、中学一年生くらいのころから徐々に距離を置いていた。あんなに大好きだったオフコースも、ほとんど聴かなくなっていた。

だから、ヨシハマとウチヤマがRCサクセションが大好きだというのを聞いて、いちばん最初に思ったのが、ああ、自分とは違うルートをたどってきたやつらだ、ということだった。ただたんに、僕の狭い、狭い世界にはそのルートを歩く強力な存在がいなかっただけの話なのだが、世の中にそういう勢力が存在していることは、もちろん知っていた。このときの気分を正確に記せば、ついに正面から「それ」に出会う日がやってきたな、という感じだったと思う。

一方、彼らの側がそのときどんなふうに思ったのかは、聞いたことはない。でも、たぶんきっと同じようなことを感じていたんじゃないだろうか。お、洋楽野郎だ。それもハードロック・ギター小僧か。ウチの中学ではセンパイにいたけど、周りにはいなかったなあ、みたいな。

考えてみれば、当時はこの2ルート、大きく「邦楽」と「洋楽」というくらいしか、分かれ道はなかった。逆にいえば、大量消費社会の神々も、同じユーザーにその両方を貪欲に摂取させることまではできなかったとでもいうべきか。いずれにせよ、もはやいかなる「ジャンル」という言葉にも薄っぺらいイメージしか抱けない現在と比べれば、ずいぶん大らかで牧歌的な時代だったとは思う。音楽を聴くのに、少なくとも小難しいことを考える必要はなかった。良くも悪くも。消費のルートに乗ってしまえば、あとは自動的に一定の場所までは連れていってもらうことができた。

それにしても、ファースト・コンタクトで明らかに相手を違うルートの人間だと認識しておきながら、どうして僕とウチヤマ、ヨシハマが接近したのかは、今考えるとうまく説明する言葉がない。もちろん、僕の方にはちゃんとした理由があるんだけど。だって、心細かったんだ。

誰にだって、人生の分岐点というものはある。あの学校に受かっていれば、とか、あの部活にもし入らなかったら、とか。もしあの子と付き合っていなければ、とか。僕の場合は、ここが人生における最も重要な瞬間の一つだったと、あとになればなるほど思える。現在の僕を形成するいろんな種が、この瞬間に蒔かれている。僕はそれを、窓際の席に差し込む初春の光とともに今でもはっきり感じることができる。もしあれがなかったら、と考えると、本当に、比喩ではなくぞくっとして体が震える。自分の存在が霧になって消えてしまうような恐怖を感じる。

人数的に、1対2だったこともよかったのかもしれない。彼らはとりあえず学校が終ったら(まだ授業も本格的に始まる前で、早い時間帯だったと思う)僕をウチヤマの家に誘い、僕も黙ってそれについていった。彼らは、RCサクセションをあまりよく知らないという僕に、レコード(当時はまだCDはあまり普及していなかった)を聴かせたくてたまらないようだった。「雨上がりの夜空に」も「トランジスタ・ラジオ」も名曲だけど、でもそれだけでRCを判断するのはちょっとマズいぜ、あれはあれでいいけど、でも違うんだ。もっとすげえんだ、もっといい曲がいっぱいあるんだよ。そんな彼らの気持ちは、今になると本当によくわかる。

ウチヤマの部屋で、いちばん最初にかけたのは、絶対に二人はもう覚えていないだろうが、ライブ・アルバムの「ラプソディー」だった。この録音のために久保講堂で行われた一夜限りのライブの模様を収めたアルバムで、「エレクトリック化」し、RCがもっとも強力な一枚岩的なバンド感を聴かせ始めた、まさにその瞬間を体験できる記念碑的な作品だ。一曲目の『よォーこそ』を聴いて、自分のバンドのメンバーといっしょにこれをマネしたくならない中学生がいたら、ウソだと思う。それをやってきたと誇らしげにいうヨシハマとウチヤマは、とてもカッコよく見えて、こいつはすげえやつらだ、と興奮しないわけにはいかなかった。(あと一回くらいつづく)
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