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どんな徒労感にだって意味はある [ドラゴンクエスト]

『ドラクエ』レビューの続きを。『6』と『7』か。ふう。

と、書く前からなんだか疲れた感じになっちゃうのは、いかにも『6』と『7』というゲームにぴったりな気分だと思うが、どうなのかな? 少なくとも僕は、この2つのゲームのことを思い返すと、疲労感というかなんというか、いや思い切って言っちゃえば、徒労感のようなものが胸の中によみがえってくる。この言葉は、いわゆるゲームを酷評するときの典型的な決め言葉の一つだが、僕もまあ、そういうつもりで使っている。でもその理由については、じつはゲーム側のせいにはしたくないのだ。それはたぶん、僕の問題なのだ。

僕は「このゲームはダメなゲームだと思う。なぜかというと……」という言い方で語りたいわけじゃない。このゲームをプレイして徒労感を感じたことで、僕は自分がどんなやつなのかを少しだけ深く知ることができた。それは、たとえば自分がニンジンが苦手だとか酒に弱いとか、そういう個別の嗜好よりは、発見したことで自分の全体像を把握するのにちょっとは役に立つことだったりしたのだ。

6 『ドラゴンクエストVI 幻の大地』


スーパーファミコンの末期、1995年12月9日発売のソフト。初代プレイステーションの発売がこのちょうど1年前、1994年12月3日なのだから、その「スーファミ最後の大作」ぶりがよくわかる。僕がゲーム業界に入った(というか出版業界か。ゲーム雑誌の編集者になった、ということ)のが1996年2月だから、まさにそのころの作品だ。超うろ覚えだが、たしかクリアしてから入ったはずだ。

パラレルワールドのような対称性を有する表(現実)の世界と裏(夢)の世界を行き来しながら、小さなストーリーの解答を重ねて進んでいくそのゲームの流れのわかりにくさ、細切れ感はよく批判の対象とされるが、でもじつは、それは職業やキャラクターなど、過剰に肥大したゲームシステムとのバランスという意味では、当然ともいえる方向づけだったんじゃないかと思う。ストーリーが印象に残らないことを減点ポイントとして挙げるのは一面的な嗜好の押し付けになるような気がする。それよりは、ストーリーとシステムのバランスを結果的に放棄して、とにかくここで採用したゲームシステムが何を可能としてくれるのかを目一杯見てみようじゃないか、というような気概。それを正面から受け止めることができるかどうか、もっとあいまいな言葉でいえば(わざわざあいまいにするってのもヘンだが)、そこに「ノレ」るかどうか。そこが試されているんじゃないだろうか。で、僕は「ノレ」なかったわけだ。

ここで提示されたゲームシステムは、まずモンスターを普通に仲間にできることも含め、使用できるキャラクターを目一杯に増やし、そのキャラクターたちが就ける職業を従来より(『3』よりってことだけど)格段に増やし、そしてそれぞれの職業に「呪文」だけでなく「特技」という苦し紛れのアビリティを加えて、肉体派の職業でも魔法のような効果を持つ攻撃その他が可能になるという、要するにやろうと思えばなんでもやれる、作ろうと思えばどんなキャラでも作れる、限りなく自由度を高めたものだ。

その自由すぎるシステム自体は、どんなストーリーをも自発的には生み出さないし、つまりどんなストーリーとも本質的にはかみ合わない。というか相乗効果のようなものは期待できない。なぜならば「物語」というのは、その性質上、不自由なものに決まっているからだ。

僕がこの『6』で思い出すのは、『シムシティ』をプレイしている感覚に近い。システムのみが与えられ、その中でなにか大きく、有機的なものを組み上げていく感じ。いうまでもなく、『シムシティ』は僕の大好きなゲームだ。そして『ドラクエ6』と『シムシティ』では、決定的に異なる点がある。「最終形」だ。

『シムシティ』で僕たちが味わう自由さは、ついにはこの「最終形」で表現されることになる。箱庭世界における「自由」が何かを生み出すことで、自分の中で現実の世界でも「自由」の価値を高めることができる。何かを生み出すための小さな勇気が湧いてくる。ゲームっていいな、と思える瞬間だ。

だが『6』の自由さが僕たちを連れて行くのは、誰がやっても同じ「最終形」でしかない。どのキャラも重要な呪文や特技を等しく身につけ、途中経過はさておき(そしてその途中経過自体は、ものすごく楽しい)どっちにしても最後はマックスに近い能力パラメータを得る。それは、宇宙のエントロピーの増大、究極の熱平衡を思わせる。最後はすべてが均等にならされ、どんな運動もストップしてしまう、死の世界だ。そこまでの膨大な途中経過の運動は、すべて「徒労」となる。

ゲーム批評的には、たぶん僕は『6』にRPGという足枷を、いやもっといえばストーリーという前へ進むためのエンジン、つまり足自体を思い切って捨て去るべきだったのだ、と言いたいんだと思う。でもたぶん、それはもう『ドラクエ』ではない。なにか別のジャンルの、別のソフトでしかないし、それにもし最初からそういうものが提示されていたとしたら、僕はこの『ドラクエ』じゃない『6』を、まさにそれが『ドラクエ』じゃないという理由でプレイしていなかったはずだ。そしておそらくここがいちばん大事なんだと思うけど、もしそのありえたかもしれない理想のソフトをプレイしていたとしても、こうして後に「徒労」について深く考察する機会はなかっただろう。それはなんというか、今より少しだけ、つまんない未来だったような気がしないこともないのだ。

7 『ドラゴンクエストVII エデンの戦士たち』


で、『7』である。

発売延期を繰り返し、結局のところ前作からじつに5年も経った2000年8月の発売。この『7』が唯一プレイステーションでの発売だが、すでに半年前にはプレイステーション2が発売されていたあたりは、前作『6』とスーパーファミコンとの関係と同じだ。なんというか、開発に(開発者サイドの予想をもはるかに超えて)時間がかかったことが、こんなにもわかりやすい形で表現されたゲームソフトもなかなかないんじゃないだろうか。そしてゲームの内容も、ああ、これは時間かかるわとため息をつき、開発の労を想像しただけで徒労感が襲ってくるような常軌を逸した大ボリュームと難易度と複雑さに満ちていた。

「そんなの言い訳にするのはおかしい」というのは確かに正論だ。だがしかし、この『7』のようなソフトは、そうした発売に至る経緯も含めて「プレイ」するべきソフトなんだじゃないだろうか、とも思う。作品だけを単体で論じることにほとんど意味がないというか。それではいちばん大事な部分を「プレイ」できない、とでもいうか。なんなら、たとえば今、このゲームを入手してプレイしようとしている人のために、そのあたりの経緯を効果的な形で表現した取扱説明書か、もしくは動画かなんかが入ったディスクを一枚、付けるとか。いや、これはけっこう本気で言ってるんだけど。冗談ではなく、そういうことをしないのならば、いっそのことこのソフトは絶版にして、新たにプレイできないようにするというのもまた、この『7』という作品にまつわる「表現」の延長線上の選択肢の一つなんじゃないだろうか、と思う。

ああ、なんかこの『7』がとてつもなくつまらない、当時の状況も鑑みなければこの21世紀の世においてはとてもプレイに耐えられるものじゃない、とでも言ってるみたいだな。でも、そういうことを言いたいわけじゃない。『7』には実際、たくさんの力業的強引さやそれゆえの綻びなどが散見され、僕自身、そこはなんとかうまいところに落ち着かせてほしかったと思っている一人だが、それとは別の問題として、僕にはこの『7』こそが『ドラクエ』の最高傑作だ、と断言する人の興奮もまた、リアルに感じることができるのだ。こうした両極端な評価(そして数の上では酷評のほうが圧倒的に多い)を得てしまうような作品は、ゲームに限らず音楽でも映画でもよく見られる現象で、それ自体はどちらかが説得されるべきだとは思わない。だが、その両者の断絶を橋渡しするヒントの一つが、この「発表当時の状況」なんじゃないか、ということなのだ。

これはあくまで推測というか仮定というか妄想でしかないが、僕にはこの『7』の、誰よりも開発者の意気込みを強く感じることができる。大容量、ムービーだって入っちゃうCD-ROMメディア。スーファミなんかとは比べ物にならないくらい表現の幅を広げてくれるプレイステーションというプラットフォーム。『ドラクエ』シリーズも『1』から数えて、ずいぶんタイトルを重ねてきた。『3』で導入した転職システムは、『6』で目一杯にまでその可能性を広げ、完全に手の内に入れた。『4』以降はすっかり主人公以外にも魅力的なキャラクターを立てることができるようになったし、『5』でチャレンジした、深く感動的な人間ドラマのストーリーはとても高い評価を得た。核になるシステムとストーリーを離れてもなおユーザーを楽しませる「やり込み要素」の組み込み方も、もうわかった。俺たちにはできる。この『ドラクエ』をさらなる高みへ、究極の完成形へ導くことが。あとは、国民的ソフトとなったかわりにハードさ、とんがった部分を失ってしまった『ドラクエ』を「ヌルい」などと呼ぶ輩に、ガツンと一発、食らわしてやるべきなんじゃないだろうか。『2』のように、「本気」になれるやつで。

そして、僕には強く感じることができるのだ。開発を進めるうちに、「うわ、これちょっと望みが高すぎたんじゃないか?」と焦りを強くしていく気持ちを。そして、出来上がってみたものに対して、これこそが作ろうとしていたもののはずなのに、何かが違う、何か間違ってしまったような戸惑いを。そういう「気持ち」をちょっとでも感じようとすることなく、ただ作品だけを単体でプレイするなんて、それじゃまるで、ただのゲームじゃないか! いや、実際そうなんだけど。でもね。

ここには、120点を本気で目指して、結局60点になっちゃったという「創作」の軌跡が、生々しい傷跡として残っている。いや、この60点というのは仮で、僕個人のはなはだいいかげんな印象による点数でしかない。人によって、それは90点だったり45点だったり10点だったりするみたいだし、それは当然のことだ。だが、それが何点だろうと、120点を取れなかった時点で、創作者にとってはすべて0点なのだ。この『7』は、たぶんそういうソフトなんだと思う。そしてそういう作品に出会うことは、ゲームだろうと音楽だろうと映画だろうと、そう頻繁にあることじゃないと思うのだ。

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